鴻池忠治郎物語|鴻池運輸-九州现金网
konoikeグループは創業から140年以上にわたり「人」と「絆」を軸として社会の基盤を革新し、
新しい価値を創出することで歴史を築いてきました。この想いは現在も脈々と受け継がれており、
konoikeスピリットとして私たちの価値創造における基軸となっています。
創業者 鴻池忠治郎の誕生
~konoikeスピリットの原点~
1852年(嘉永5年)、創業者 鴻池忠治郎が大阪府西成郡北伝法村(現大阪市此花区伝法4丁目)に生まれる。鴻池創業の地でもあり、大阪・淀川水系の河口近くに位置する伝法には、17世紀から江戸へ酒や醤油を運ぶ菱垣廻船が集積。特に酒樽専門で高速輸送を得意とする伝法船は、樽廻船として大阪と江戸を結ぶ海運の重要な担い手となった。
1871 年( 明治4 年)、父 藤七から大阪市中の河川・水路を運航できた「上荷船」を1艘と借財を譲り受けた。そして、水運業と並行しながら、付近への工場進出を見越して伝法川河岸で貯木場を設けて製材業を経営、建築用資材の製造も行うなど、土木建築工事受注の足掛かりを築いた。
幼少の頃より、米や酒などを扱う「播金」の主人に目をかけられ、商いの“いろは”を学んでいた忠治郎は、弱冠20歳にして独立、需要の動きを鋭く読んでさまざまな産業に携わっていき、淀川水系での人員の動員力を高め、事業の基盤を築いていった。
忠治郎のもとに多くの人々が集まった理由のひとつに、“厚い人望”があった。強い統率力と積極性に富み、竹を割ったようなからっとした性格の持ち主で、道義を重んじ義理人情にはことに厚く、貧しい者や弱い者に限りなくやさしく接した。この気質が周りに大勢の人を集め、人望を高めていった。
成し遂げられてきた事業
~konoikeスピリットの成果~
「鴻池運輸」の創業
~「人」と「絆」の dna ~
1880年(明治13年)、「鴻池組」の名称のもと、労務供給業・運輸業を開始。この年を鴻池運輸株式会社の創業年と定めている。淀川河口域である伝法では、古来たびたび水害が発生したが、忠治郎は人心を掌握する持ち前の統率力を発揮し、その復旧工事に多くの人を動員した。
1900年(明治33年)、前年に鉄鋼の国産化を目指して伝法に設立された民間初の鋳鋼所において、荷役と運搬作業を請け負う。これが、現在も続く「工場構内請負業務」の原点である。
国の直轄工事である
「新淀川開削工事」を
成し遂げる
古くから淀川流域は政治・経済・文化の中心地として重要な位置を占めていたが、たび重なる洪水や氾濫による甚大な被害を受けており、被害のたびに大量の土砂が流れ込む大阪港では、次第に外国船や国内の大型船が遠のいていった。しかし、淀川の修築工事は着手されるも、なかなか効果は出ず、大規模な洪水に見舞われ続けた。そこで、明治政府は抜本的な治水対策として、国の直轄による淀川改良工事を実施することとなった。課題となったのは、資材の調達とともに、膨大な労働力の確保だった。
さらに、1917年(大正6年)に起こった、たび重なる台風による淀川流域の大洪水においても、大阪府直轄の復旧工事が行われ、鴻池は、軍の工兵隊、内務省とともに参画した。この時、既に65歳と高齢になっていた忠治郎だが、持ち前の不屈の精神力と類い稀なる統率力で部下を鼓舞し、軍を上回る勢いの活躍により、翌年に工事を完了させ、周囲を驚かせた。これにより、誠実に、愚直に作業に取り組み、完遂するまであきらめることのない「konoikeスピリット」が広く知れ渡ることとなっていった。
民間初の平炉工場
「日本鋳鋼所」建築工事を
受注、成功させる
近代化へ邁進する日本では、重工業が発展するにつれ、鉄鋼需要が増大。そのため、国家の需要に応じる製鉄所建築が求められた。中でも、日本鋳鋼所は、日本経済市場において注目すべき民間初の平炉工場。伝法の地に近代産業が誕生することを喜んだ忠治郎は、採算度外視でこの工場の本格稼働に向けた増築工事を受注。盛土工事を始め、鋳物工場、倉庫、事務所等の建設工事を行った。
また、完成後も原材料の搬出入や構内運搬に従事する労務の供給を請け負い、鴻池運輸の基礎となった。日本鋳鋼所はその後、住友家が買収し、住友鋳鋼所と名を改めた。最初の大型請負工事を見事完成させたことは、祖業をともにする鴻池組にとっても大きな自信となり、新淀川開削工事と相まって、「konoike」の将来への大きな跳躍台となった。
原点を感じ、先人と
つながる「姫島荘」
himeshima-so exterior
「姫島荘」は、現在の大阪市西淀川区姫島で創業者・鴻池忠治郎が晩年を過ごした住まいです。
建築の専門家の高度な技術により軽井沢に移築されました。
かつてここは、忠治郎が自分のもとで働く多くの人々の苦労をねぎらった場所。時空を超えて先人とつながり、
企業理念である「人」と「絆」を体感することができる、konoikeグループのdnaとも言える場所です。
当時関西では貴重な木材だった栂材をふんだんに使用したおよそ100年前の住居を、
京都の西本願寺を手掛けている熟練の大工数名をはじめとする特別チームが丁寧に解体し、
地元長野の職人とのコラボレーションにより、数年の歳月を経て、見事に復元されています。